【母子福祉の宿泊施設】生活苦に追われるように必要に迫られて仕事をしたらどんどん消耗した。結局病気や障害が見つかって今は自分のペースで穏やかに生きている話。

【母子福祉の宿泊施設】生活苦に追われるように必要に迫られて仕事をしたらどんどん消耗した。結局病気や障害が見つかって今は自分のペースで穏やかに生きている話。

【性別】女性
【年齢】(仕事が大変だった当時)
47歳

【当時の職業】
母子福祉事業所が所有する宿泊施設

【当時の住まい】
一戸建ての貸家。
夫が商売をしていたので自宅に事務所を構えていた。
夫、中学生の息子との三人暮らし。

【その仕事はまだ続けてる?もう辞めた?】
その他





【就職のきっかけと経緯】
夫の収入が減ってしまったのでとにかくどこかに就職をしなければならなくなった。
仕事はしていたが(保育士夕方の保育)その稼ぎだけではとてもじゃないけど賄えなかったので。

【環境と仕事内容】
母子福祉事業所に併設されている宿泊施設の清掃、宴会準備、片付けおよび館内のレストランホールでの接客。
宿泊施設、レストラン、事務所職員合わせて10名程度。
パートタイマー待遇。
レストランのお客さんは近隣オフィスのサラリーマンや県立体育館を利用している高齢者。
宿泊は学校の部活の合宿が多かった。
勤務時間は10:00〜15:00.
土日休み。
時給750円。
16;00

【大変だった時期】
未経験の仕事だったので何もかもを一から覚えなければいけなかった




【大変だったこと】
宿泊施設の方は、学生の部活後の部屋の後片付け(布団からカバーを外して洗濯する、部屋の掃除をする)など何部屋もあるのを1〜2名で業務を行っていた。
制服がレストランホールスタッフ、事務員、宿泊施設作業員、全てが同じユニフォームでタイトスカートに白シャツ、ベストといういで立ちのため宿泊施設の作業が著しくやりにくかった。
ジャージやスエットなど動きやすい服装を希望したが聞き入れられることはなかった。
寒い時季にタイトスカートでの業務は寒くてたまらなかった。
基本的に人が足らない施設だったので、宴会準備を午前中から一人で行うことが多かった。
ランチタイムにはレストランに出て13時過ぎまでホールで働き、昼食をとった後はまた宿泊施設に戻りそちらの業務を行っていた。

【大変だった期間】
その宿泊施設には3ヶ月の勤務ののち、同じ事業所で経営する駅ナカのレストランに移動になった。
そこは事業が閉鎖されるまでその後5年間務めた。




【当時の心境】
仕事の内容そのものは家事の延長のような仕事だったが、そもそも家事が苦手なので業務のすべてが苦痛でたまらなかった。
接客業の方も客とどう接していいかわからず、腕も非力なのとバランス感覚が無いのでお盆に乗った定食や丼ものなどを片手ずつ持って二つ運ぶ事が出来ないところを二つ持ちを強要され、お盆を二つ持って運ぶという作業が怖くてたまらなかった。
給料が出る事だけが楽しみだったがその給料も最低賃金だったので辛かった。

【職場が大変だった原因】
レストランのホールで仕事をしている人と、宿泊施設の方で仕事をしている人との人間関係が最悪だった。
元々は彼女らが人間関係が悪くレストランで働く側の人が退職するという騒ぎを起こしたため、人員補充でわたしが求人で引っかかって採用された。
結局レストランのスタッフが辞めなかったのでわたしは宿泊、レストラン両方で働かされ里事になり施設内を走り回ることになってしまっていた。




【仕事で良かったこと】
とにかくはたらいてお金を稼がなければならなかったので、やりがいや充実感を求める間もなく、感じることもなくただただ必死で働くしかなかった。
この仕事のあと、夕方には保育園の仕事があったのでやりがいはそちらに向けることにして、宿泊施設とレストランでは言われた業務をこなすことだけに専念した。




【特にひどかった最悪の出来事】
家事が苦手で家事スキルが高くないところに、障子のさんと障子紙をわたされ障子紙を貼れと言われたことがある。
広い客間で一人でいったいどうすれば障子紙なんて貼れるんだと途方に暮れた。
当時はまだスマホもなく調べようにも調べられず、結局宿泊施設の主任に「やったことがないので出来ません。」と伝えたら「あなたその年で長年主婦をやっているのに障子紙一つ貼れないの?頭の悪い人ね。」とさんざんなことを言われ結局主任と二人で貼ることになったが、作業をしている間中ずっとダメ出しを出されて意地悪な姑と作業しているようでいたたまれない気持ちでいっぱいだった。
年齢的にも若くない年齢になっていたのでそれなりにあったプライドがずたずたに引き裂かれたような思いだった。




【相談した人・助けてくれた人】
同じくパートで時々手伝いに来てくれるおばあちゃんが居られて、その人は気さくでこちらの話もよく聞いてくれて仕事もてきぱきと何でもできる人だった。
時々しか来ないので、来られた時に一緒にオロナミンCを飲んで話をするのが楽しみだった。

【改善のための行動】
自分の出来ること、できないことを伝えるが出来ることは出来て当たり前、できない事はそんなことも出来ないのか、という対応で結局自分で頑張るしかなかった。
記憶力も良くない方なので、オーダーを取るなどは必ず伝票に書いて確認をするようにした。




【現在の状況と心境の変化】
それから12年たち、異動して仕事をしていたレストランも閉鎖になりダブルワークの心労がたたり双極性障害を発症し、病気療養に入った。
生活が立ち行かなくなり知り合いの市会議員さんに相談して生活保護の申請をして認定してもらい、生活は低めながら安定している。
病気の方は障碍者手帳2級をとり、障害年金ももらえるように手続きし、現在は障害年金と生活保護の二本立てで生活しつつ、障害者の就労継続支援B型事業所を利用している。

【学んだこと】
本当に大変な所には我慢してまで働くことはない。
病気になってしまうと何にもならないから、ここは合わない、ひどいところだと思ったところからは逃げてもいいと思う。



【当時の自分へのアドバイス】
病気や障害は仕事をしている時からあったと思う。
なにかにつけて生きにくいと感じるのは発達障害や双極性障害のせいだったと思う。
頑張っても良い成果がでず、それどころかろくなことにならないというパターンに陥っていたのは障害のせい。
自分の特性を知り自分に合ったことをのんびりとやる生活は悪いことではない。
頑張らなくてもいいんだよ。